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寄稿  『多賀城の歴史』 斎藤秀夫著

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


1 宮城県多賀城市市川字田屋場(たやば)にある多賀城の正面に位置する南門が、創建からちょうど千三百年目に当る令和六年(二〇二四)に再建され、翌年の四月に一般公開となった。
 この多賀城はエミシ(言語や風俗を異にして、中央政権に服従しなかった人々、東北地方に多く住んでいた)を鎮圧するために設けられた古代柵の一つで(大化<たいか>三年<六四七>に築かれた現在の新潟県新潟市東区にある渟足柵<ぬたりのさく>が最古とされ、『日本書紀』の中にも「(同年)渟足柵を作りて、柵戸<きのへ=城柵に付属させた民戸>を置く」そう書かれている)南門のすぐ近く、覆堂(おおいどう)に守られて建つ多賀城碑(つぼのいしぶみとも云われ、享保<きょうほう>二年<一七一七>に成立した『みちのく紀行』には、「かはらふける<瓦を葺いたの意味>一字の小堂のうちにあり…、石の高さは六尺あまり、石の形のままにて、おもてをたいらかにすりて文字を彫いれられたり」とあって、恐らく覆堂が完成したのは、それ以前であったと推定される)には、
2「神亀(じんき)元年(七九四)按察使(あぜちし=養老<ようろう>三年<七一九>に設置された地方行政監察のための職)兼鎮守将軍(陸奥国に置かれた軍政機関の長官)従四位上勲四等大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)の置く所なり」
 そう刻まれている。

4 そこでこの多賀城の歴史を探ってみると、その規模は約九〇〇メートル四方で、周囲は築地塀(ついじべい=土砂をつき固めて造った大型の土壁、右の絵参照)や材木塀で囲まれた敷地内にあって、東人によって創建された当時は、中央部に正殿が置かれ、南に門が開き、東西に脇殿が配置されただけの質素な作りであった。建物はすべて掘立式で、築地塀以外は瓦葺きとなっている。その後天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(七六二)先のつぼのいしぶいに、
「参議東海東山節度使(せつどし=辺境の要地に置かれた軍団の司令官)同将軍恵美朝臣朝獦(えみのあそんあさかり=律令制度の基礎を固めた藤原不比等<ふじわらのふひと>の孫)修造する也(なり)」
 そう刻まれているように、彼によって大改修が行われ、正殿は格調のある四面庇(しめんひさし)の建物に建て替えられ、両脇には東西の楼(ろう=高く構えた二階建ての建物)、主殿の後方には後殿が造営され、政庁の南門には翼楼が取り付けられた(下記写真参照)そして主殿前の広場は石敷きとなり、石組み排水溝が設置されるなど、全期を通じて最も機能性と装飾性を合わせ持った、堂々たる城郭となった。
5 しかしである。それから十八年後の宝亀(ほうき)十一年(七八〇)この多賀城は焼き打ちに合い、建物はほぼ全焼してしまう運命にあった。そしてその原因がこれだ。陸奥のエミシの旅長の一人に、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)と云う人物がいた。彼は朝廷から外従五の下(げじゅごいのげ)と云う官位を賜わり、上治郡(かみじぐん=後の栗原郡の誤記とする説などもある)の郡司に任じられていたのだが、同年の三月に、多賀城の北約五二キロメートルの先の伊治城(宮城県栗原市=奈良時代後半に造営された柵)で牡鹿郡の郡司道嶋大楯(みちしまのおおだて)と呰麻呂の上司である按察使紀広純(きのひろずみ)を殺害すると、そのまま南下して多賀城まで攻め入り、府倉の物を取り、放火してしまったのである。『続日本紀』では6これを、
「呰麻呂の私恨」
 と記している。つまり道嶋や広純は日ごろからエミシである自分を見下す態度をとっており、それに耐えかねての犯行とされているが、実際は朝廷によるエミシたちへの圧迫が強まり、みちのくに住む人々の不満は年々高まりつつあった。要するに律令支配者と、在地勢力との軋轢(あつれき)によって起きた反乱と捕えるべきであろう。

3 こうして焼失した多賀城が再建されたのは、それから間もなくのことであった。焼失前同様主殿などの建物は礎石式、瓦葺きで復元され、儀式を行う正殿以外にも、実際に事務を行う役所が大畑地区を含め、六ヶ所設けられ、従来の多賀城が蘇る(よみがえる)こととなった。だがまたしても貞観(じょうがん)十一年(八六九)五月二十六日、この城に悲劇が襲った。『日本三大実録』が、
「原野も道路もすべて海となり、船に乗るいとま(ひま)あらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり」
 そう綴る、三陸沖を震源とする推定マグニチュード八.三と云う大地震が起きたのである。ちなみに、平成二十三年(二〇一一)三月十一日午後二時四十六分、同じく三陸沖を震源とする東日本大震災の規模は、マグニチュード九.〇と伝わっている。そのため多賀城の多くの建造物が壊され、城下に津波が押し寄せて、多くの尊い人命が失われてしまったのである。
 この大惨事を重く見た大和朝廷はただちに役人を派遣して、被害状況を調べた上で、翌年には陸奥国修理府が置かれ、さらに大宰府(当時西の大宰府、東の多賀城と並び称されていた)にいた新羅国(しらぎのくに=古代朝鮮半島南東部にあった国家)の瓦職人を使って、再建用の瓦作りに従事させ、地元の工人にも伝習させて建物を再現させた。こうした上で南北大路と東西大路、この二本の道路を基準として、道路網を整備した。南北大路は政庁南大路の延長線にあって、道幅は十八メートルで造営された。東西大路は多賀城の外郭南辺から五五〇メートル離れていて、外郭南辺築地塀と並行して建造された。
 さらに大路を基準として約一一〇メートル間隔で道幅三メートルほどの小路が作られ、側溝も付けられた川には、橋が架けられてあった。町並みには多賀城に勤務する千二百人以上の役人や兵士の他、多くの庶民が暮らす住居が次々に築かれて行ったのである。ところで新造された南門であるが、発掘調査で明らかになった資料をもとに、高さ十四、五メートルの堂々たる二重門と、両脇に付く高さ四、五メートルの築地塀が併せて復元された。エミシたちの朝廷への反乱は貞観十一年以降も続くが、元慶(がんぎょう)二年(八七八)に起きた元慶の乱(そのころ東北地方は大凶作に見舞われていたのだが、秋田城(出羽柵とも呼ばれている)城司(主)良岑近(よしみねのちかし)はこの現状から眼をそらし、不当な交易によって利潤を独占し、重税を課して私腹を肥やす有様であった。その圧政に耐えかねたエミシたちが蜂起した事件)を最後に一応の終息となり、東北地方も段々と律令国家の体制内に組み込まれるようになった。
7 その結果、大和朝廷の支配区域はさらに北へと伸び、陸奥国鎮守府は胆沢城(いざわじょう=岩手県奥州市水沢)へ移され、多賀城の重要性も次第に衰退して行くのである。
 とは云え…、都に住む貴族たちはこの地をみちのくの名であこがれ、多賀城碑は歌枕(古来から歌に詠み込まれた名所)の一つとして、つぼのいしぶみの名で呼ばれ、幾人もの歌人が秀歌を残している。たとえば、西行が『山家集』の中で、
「陸奥の おくゆかしくぞ 思ほゆる つぼのいしぶみ そとの浜風」
 そう詠めば、あの頼朝でさえ『新古今和歌集』に、
「みちのくの いばで忍ぶは えぞ(現在の北海道の意か?)知らぬ かき尽してよ 壷のいしぶみ」
8 その一首を残すほどであった。さらにはるか後年の元禄(げんろく)二年(一六八九)『奥の細道』の旅を続ける芭蕉は、この多賀城に立寄り、つぼのいしぶみを眺めて、
「今眼前に古人の心を閲す(けみす=調べる)。行脚の一徳、存命の悦び(よろこび)羇旅(きりょ=旅の苦労)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也」
 そう綴るほどである。このような歴史のある多賀城を、一昨年(二〇二四)の十一月末、仙台在住の姪や甥たちに車で案内してもらった。おかげでいい思い出が出来た…。

参考資料
・米沢日報紙  置賜日報社発刊
・TAGAJO 多賀城市観光協会発刊
・多賀城碑 多賀城市教育委員会発刊
・日本城郭大系第三巻 山形・宮城・福島 新人物往来社発刊
・日本の城 世界文化社発刊
・CD奥の細道 キングレコード発刊
・広辞苑 岩波書店発刊